五月雨を集めて速しだまらっしゃい

映画や特撮を観ては感想を書いたりサボったりしてるよ!

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

ファイトクラブ考察 その③

くぅ~疲れましたwこれにて完結です!
……なんかこれも懐かしいな、流行ったのっていつだっけ
まぁそんなわけで今回がラストです
 これまで同様、まずマーラ・シンガーという人物についての紹介から入ろう。彼女は登場するその瞬間から極めて印象的である。何せサングラスをかけ、煙草の煙を燻らせながら彼女が現れたのは、“睾丸ガン患者の”自助グループなのだから。これだけで彼女が尋常の女性ではないと察することができる。その推察に間違いは無く、彼女の生活はと言えば、コインランドリーの衣服を盗んで古着屋に売り飛ばし、寝たきりの老人に配給される弁当を勝手に拝借することで口を糊している、とてもヒロインの立ち位置にいるキャラクターとは思えないものだ。

 さて、彼女が自助グループに参加したのは、言わずもがな睾丸ガンを患ったからではない。その他の自助グループについても同様である。彼女は何らの重病も患ってはいない。しかし、「ぼく」のように自己の再認識を求めていたわけでもない。彼女は「ぼく」と違い自分が何者であるかを嫌と言うほど把握している(それに諦めすら抱いている)のだから。
 彼女が参加した理由は、次の一言がすべてである。

「映画より安くてコーヒー付き」


 端的に言ってしまえば彼女にとっては“暇つぶし”というわけだ。死と隣り合わせの人々の姿を、ドラマとして楽しんでいたのである。

 一見悪趣味にも思えるが、実のところこうした行為はそう珍しいものではない。悲劇は日常的にエンターテイメントとして人々に消費されている。悲恋・難病・飢餓・戦争……題材は様々あるが、そうした表現作品を見たことが無いという方はいないだろう(もちろん、表現作品そのものに触れられない環境にいる場合を除く)。さらに言えば“事実に基づくものである”ということが、大きな付与価値となることも理解してもらえるはずだ。多くの人々は彼女と同様、金銭と引き換えに悲劇を観賞しているのである。違いがあるとすれば、メディアを通しているか否か、それぐらいのものだろう。哲学者、ジャン・ボードリヤールはこんな言葉を遺している。

「程よい室温のようになったワインのように供されるなら、出来事や暴力が好きなのだ」


 彼女の行動は当人を目の前にするという点を除けば、特別悪趣味ではないわけだ。彼女は彼(女)らの悲劇を彼(女)らのものとして受け取っているという点で、真摯だと言える。「ぼく」が彼(女)を通して見ていたのはあくまで自分の姿だったのだから。マーラにクロエが死んだと聞かされた際の淡白な反応なその為である。

 また、マーラを語る上で欠かせないのは彼女の哲学だろう。“死はすぐそこに。なのに死ねない私は悲劇”と言うものだ。死を望んでいるかのような思想だが、「僕」もまた死を望むシーンがある。リコール調査のため飛行機で各地を飛び回る、その一幕だ。

「機体が大きくかしぐと僕は“事故になれ”と祈る。でなきゃ空中衝突でもいい」


 両者は同じようであるが、その性質はまるで異なる。まずマーラは先に書いたように、食いつなぐのもやっとの、いわば「どん底」の生活をしている。死を身近に感じているわけだ。その上での上記の哲学は、非常に切実なものである。自分の人生に対して“死んだ方がマシ”だと考えているわけなのだから。
では「僕」の方はどうか。彼の生活はマーラと違い、死とは程遠い。もちろん、彼とてある日突然命を落とす可能性はある。その点はマーラと同じだし、また誰もが同じだ。しかし、彼はその可能性を引き下げることが出来る。病気にせよ事故にせよ、医療費を払うことが出来るのだから。その時がくれば迷わず彼は治療を受けるだろう。(死に至る病ではない)不眠症でさえ病院に駆け込んだのだから。逆にマーラの方は死に直結するだろう。これも「ぼく」に治療費が無いと嘆くシーンから把握できる(ただし、治療費が無いというのが事実にせよ、このシーンは「僕」の気を惹こうとしていると考えるのが妥当である)。

「僕」が死を望んだのは“剥離”によるものである。生への実感を持っていないのは散々書いたが、彼はまたそれゆえに死への実感も極めて薄い。他ならぬ自分の生死が、彼にとってはまるで他人事なのだ。彼からすれば航空事故は退屈を紛らわすイベント(非現実と言い換えてもいいだろう)のようなものだし、そんなこと(!)より目の前の不眠症の方が大事というわけだ。当然、事故が起きればそんな態度ではいられない。タイラーがパンフレットのイラストを見て指摘したかったのは航空会社の欺瞞ではなく、この点だったのかもしれない。


 マーラがどのような人物か分かったところで、いよいよ彼女とタイラーとの関係に触れることとする。つまり、マーラがタイラーの存在意義を語る上でどう関わってくるのか、という問題だ。実はタイラーが生まれたきっかけは、簡単に言ってしまえば「僕」がマーラに恋をしたことなのである。
「僕」はマーラのどこに惹かれたのか。ここについては極めて描写が少なく、愛を告げるシーンにおいても、その理由が語られることはない。現実なら、“容姿に一目ぼれした”の一言で片づけてしまってもいいだろうが、これが物語である以上そうはいかない。

 これまでの「僕」の人物像から推測すると、彼女にあるシンパシーを感じ、それゆえに魅かれたのだと考えられる。すなわちそれは“愛されることへの渇望”である。
 「僕」が満足な愛を受けずに育ったことは既に書いた通り。マーラもまた同様に愛の無い環境で育っただろうことは、察するに容易い。「あんなファック小学校の時以来だわ」とは彼女の家庭がどのようなものだったかを示す、象徴的台詞である。“同類家族史交配”という言葉があるように、同じような家族史を持った者同士が惹かれ合うのは珍しいことではない。愛されず育った「僕」は、それゆえに同じ欠落感を抱えるマーラに惹かれ、互いに愛し合うことで、それを埋めようとしたのだ。こうして考えれば、堕落したヒロインらしからぬ人物像なのにも、意味があるわけである。
しかし、マーラと出会った時の「僕」には、彼女を受け止めるだけの力が無かった。父の妄執に囚われている限り、「僕はまだガキ」のままなのだ。マーラに恋していながらも、突き放すような態度を取っていたのはこのためである。彼は子供であるがゆえに、その思いをどう処理していいかわからず、逆の言動をとってしまったというわけだ(男子児童によくみられる反動形成である)。

「僕」はマーラとの出会いで再び自己規定を迫られた。ガキのままではいられなくなったのだ。彼は求めた。自らを拘束するものを消し去り、大人の男へと導いてくれる存在を。これこそがタイラーに課せられたもうひとつの使命なのである。
 
 この視点から見ると、タイラーの行動はまた別の意味を持ち始める。彼は「僕」に執拗なほどに“痛み”の意味を教える。ファイトもそうだし、手の甲を薬品で焼いたのもそうだ。これはいわば儀式である。古今の様々な民族において、少年が大人の男となるためのイニシエーションとして、“痛み”の存在は避けられない。タイラーは言う。

「痛みを消すな!受け入れるんだ!苦痛なしじゃ、痛みなしじゃ何も得られない!」

 
 このように“痛み”に意味を与えるのは、本来父親の役目だが、「僕」の父親はそれを放棄した。タイラーがその代役を務めさせることで、「僕」はもう一度自分の成長過程をやり直そうとしているのだ。失った(得るはずだった)過去を取り返していると言い換えてもいい。「僕」が初めてのファイトで得た喜びは、このことにも由来する。
痛みを知り、父親の象徴としての社会と対立することで、徐々に大人の男として自立し始める「僕」。父親に電話しなくとも、流行りに習わずとも、自分の生き方を決められるようになったのだ。しかし、これはタイラーに頼った結果である。何かに依存していては、あの自助グループに通っていた時と、何ひとつ変わらない。たとえタイラーがもう一人の自分であってもだ。それゆえタイラーは「僕」の手を離し、今度は敵となって「僕」の前に立ちふさがる。「僕」が計画の騒乱計画を邪魔しようとしたからではない。父親の代役としての自分を乗り越えることが「僕」には必要なのだ。同時に、社会の崩壊(言い換えれば過去の父親との決別)を、その身でしかと受け止める必要があるのだ。それでこそ「僕」は真に自立し、マーラを受け止めることが出来る。

 爆破が間近に迫るビルの一室で、「僕」はタイラーと衝突する。映画のオープニングであり、クライマックスでもある。決着をつける手段はただひとつ、“対話”である。タイラーが肉体を持たない以上当然だ。これが心理的問題である以上、心理療法の常套手段である“対話”が必要不可欠なのだ。

 激しい対話の中で、タイラーは「責任を取ってもらう」と叫ぶ。タイラーを生み出した責任。「騒乱計画」の責任。受け取り方はいくつかあるが、すべてを包括した言い方をするならば、自分の人生に対する責任だろう。これまで「僕」は自分の人生を他人事のように見ていた。しかし、もうそんな無責任な彼は存在しない。彼は答える。「分ってるよ。ちゃんと責任はとる

 対話の末、「僕」はついにタイラーから主導権(拳銃はその象徴)を奪い取る。そして自分を撃ち抜いた。彼が撃ち殺したのは過去の自分である。それは誰かに頼る自分であり、子供のままの自分である。タイラーを必要とする「僕」が死んだため、タイラーも同様に消え去った(正確に言えば「僕」に統合された)。直前の「タイラー。しっかり聞けよ。僕は目を開いている」は、「僕」が自立した(タイラーがその役目を終えた)ことを示す台詞だろう。
 
 迎えたエンディング。「僕」は運ばれてきたマーラと共に文明の崩壊を見届ける。実際にビルは爆破されているわけだが、同時に「僕」のすべてのしがらみが消え去ったことを意味するメタファーでもある。このシーンで「僕」がマーラに語るセリフは、は吹き替え訳があまりに印象的なため、そちらを引用する。

「僕の人生で一番不思議な時に出会った」


人生で一番不思議な時。あるいはそれは子供から大人へと移り変わる、その瞬間を指しているのかもしれない。


お付き合いありがとうございました
以下参考資料を貼っていきます

和田秀樹著 『多重人格』 講談社,1998
相場均著 『異常の心理学』 講談社,1969
ジャン・ボードリヤール著,今村仁司,塚原史訳 『消費社会の神話と構造』 紀伊国屋書店,1995
緒方明著 『アダルトチルドレンと共依存』 誠信書房,1996
斎藤学著 『アダルト・チルドレンと家族』 学陽書房,1996.
下條信輔著 『サブリミナルマインド~潜在的人間観のゆくえ~』 中央公論社,1996.
豊田正義著 『オトコが「男らしさ」を棄てるとき』 株式会社飛鳥新社,1997.
國友万裕著 『マッチョになりたい!?~世紀末ハリウッド映画の男性イメージ~』彩流社,2001.
ギー・コルノー著,平井みさ訳 『男になれない息子たち』TBSブリタニカ,1995.
リチャード・キャメリアン著、兼近修身訳 『洗脳の科学』 第三書館, 1994.
スティーヴン・ハッサン著、浅見定雄訳 『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版, 1993.
スポンサーサイト

テーマ:洋画 - ジャンル:映画

  1. 2014/04/03(木) 23:38:34|
  2. 映画感想
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<世にも奇妙な物語'14 春の特別編 感想 | ホーム | ファイトクラブ考察 その②>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://owashiya.blog86.fc2.com/tb.php/682-86af972f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

大黒黒子

Author:大黒黒子
マンガと仮面ライダーを

こよなく愛すダメ人間。

検索フォーム

最新記事

月別アーカイブ

カテゴリ

未分類 (50)
映画感想 (254)
仮面ライダー感想 (87)
ラジオ感想 (74)
アニメ感想 (99)
その他感想 (20)
トラバテーマ (20)

FC2カウンター

BLOG RANKING

人気ブログランキングへ blogram投票ボタン

良ければポチってってね

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

amazon

DMM

ドル箱

無料ゲームで稼げる&高還元率ポイントサイト│ドル箱

げん玉

楽天

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。